大林宣彦監督『野のなななのか』常盤貴子、品川徹、寺島咲、安達祐実、他 "見ることによって語り継がれる映画"
注・内容に触れています。
『野のなななのか』
大林宣彦監督
出演 : 常盤貴子、品川徹、寺島咲
安達祐実、他
音楽 : パスカルズ
物語・北海道芦別市で古物商を経営する元病院長の鈴木光男(品川徹)が、3月11日の14時46分に逝去。92年に及ぶ人生の幕を閉じる。告別式と葬儀の準備をするため、鈴木家の親族が故郷である芦別に集結。大学教授の冬樹(村田雄浩)、原発職員の春彦(松重豊)、看護師のカンナ(寺島咲)ら、光男の長男、次男の子どもたちが久々の対面を果たしていると、清水信子(常盤貴子)という女が訪ねてくる。やがて、彼女を通して1945年に起きた旧ソ連の樺太侵攻で光男が体験した出来事を彼らは知る。(物語項、シネマトゥデイより抜粋)
※Memo1
●自由なる筆致で描かれる"大林宣彦絵画"
全く途絶えることのない言葉の洪水。
言いたいことが溢れでてスクリーンから濁流のように押し寄せてくる、その情報量に一回見ただけでは全体を把握することはほぼ判別不能なほど。
しかし考える余裕すら与えてくれない展開と密度にも関わらず、ずっといろいろ考えさせられる3時間。
部分は全体であり全体は部分でもある不思議な映画的時間。
●実際、冒頭からたたみ込むように物語は幕を開ける。
カンナがやかんに触れて「痛っ」と声を上げた瞬間よぎる想い。
そしてカンナのおじいちゃん、鈴木光男が倒れて入院、集まってくる親族たち。その会話。誰と誰が、どのような繋がりかわからないスピードになっている。
清水信子がすっとドアの向こうから現れて「まだ、間に合いましたか」と入ってきてベッドの横につき「ただいま戻りました」
傍らに立つ医師が。
「ご臨終です」
時間は14時46分。
「おじいちゃんの時計、ずっとこの時間で止まってた」
すっと自分の時計(かなり古い)を見る信子。
…その時計も14時46分で止まったままだ。
●生と死の境界線が曖昧な「なななのか」(四十九日)の時間の中に死者も生者も現在も過去もさらに遠い過去もすべてのものが綯交ぜとなって存在する。
「誰かの代わりに生まれ誰かの代わりに死んでいく」
その場に常盤貴子と安達祐実のふたりがいたことによって急遽、撮影されたシーン(のちにポスターとなる)
まさに生まれ変わりなのではないか、ということを思わせるコーヒーカップの持ち方、髪を片手でかき分ける仕草(その瞬間にパチッと繋がったとあるインタビューで監督が答えていました)
このシーンに至るまでの演劇的ともいえる表現は本作中、最も熱を帯びいろいろなピースがつながっていく白眉な展開になっている(観客側の空気もそう感じた)
●「団塊の世代」が完全に「空白」として扱われていて(他界している設定で)誰ひとり登場しない。(←鑑賞後に読んだインタビューなどであと付け的に再確認)
なるほどと思ったのは確かに、そこの年代の登場人物がいないことによって映画初見では家系図的な繋がりがわかりにくくなっていたのか、と。
「団塊の世代=戦争を知らない子供たち」の不在は戦争を体験した者たちと語り継ぐ者(こども)たちを浮かび上がらせる。
本当に鋭い論考だなぁ、と。
●時計の針は14時46分から止まったまま。
(未来を生きはじめることによって動き始める)
そして、この映画もまた、これからも見ることによって語られ止まるこなく動きつづけていく(生き続けていく)。
幾度となく再見したい映画だ。
※Memo2
●パンフが表1〜4を含めずに実際の本文のみで64ページもの大ボリューム。
最初に書かれている「映画館から家に帰るまでに読み切れない冊子を」通り濃い内容です!
高畑勲監督との対談、椹木野衣さんによる長編批評など掲載。
映画『野のなななのか』公式サイト
http://www.nononanananoka.com/
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